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太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、隋末の混乱期に父の李淵を補佐して主に軍を率いて各地を転戦、群雄を滅ぼし、後に玄武門の変にて兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。貞観の治と言う、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。 == 生涯 == === 即位前 === 武功県で生まれた。4歳の頃、父・李淵をある書生が訪れた際に李世民を見て「龍鳳之姿、天日之表、其年几冠必能済世安民」(「龍や鳳凰の姿を有し、成人後は世の中を治めて民衆を安心させるだろう」(『新唐書』本紀第二による)と言った。そのため世民という諱がついたというエピソードが伝えられている。16歳のとき、隋の煬帝が雁門において突厥に包囲されると、李世民は雲定興の下で従軍し、煬帝救出に尽力した。また李淵が歴山飛の包囲下に置かれたときは、軽騎を率いて救援した。 617年(大業13年)、李淵が太原で起兵すると、李世民は右領軍大都督・敦煌郡公となって長安に向けて進軍した。宋老生を撃破し、長安を平定すると、秦国公に封ぜられた。618年(義寧2年)1月、右元帥となり、3月には趙国公に改封された。 同618年(武徳元年)5月、唐が建国されると、6月に李世民は秦王に封ぜられ、尚書令に任じられている。唐朝では即位前の李世民が尚書令に任じられたため、皇帝の前職に臣下を就任させることを忌避し、滅亡まで尚書令は欠員となった。 李世民は武将として優れた才能を発揮し、薛仁杲・劉武周・王世充・竇建徳・劉黒闥といった隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たした。長兄の李建成は立太子され、高祖(李淵)が急死した際に直ちに即位する必要があるため、常に高祖の傍についていなくてはならず、李世民に比べれば戦功が少なくならざるを得なかった。 建国の戦功に比してその地位が報われていないと、李世民とその側近達は不満を有するようになった。その対策として高祖は天策上将(てんさくじょうしょう)なる称号を李世民に与え、また弘文館と言う宮殿を新たに築き、これを与えた。 しかしその後も世民側の要求は止まらなかった。李建成も李世民に対抗して、高祖に訴えて世民の謀士である房玄齢と杜如晦を遠ざけるなどの対抗策を採り李世民の追い落としを図った。それを事前に察知して身の危険を感じた李世民は二人と密かに連絡し、626年(武徳9年)6月、長安宮廷の玄武門で、李建成と弟の李元吉を殺害する事件を起こした(玄武門の変)。この政変により、高祖は8月に李世民に譲位し、事態の収拾を図った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太宗 (唐)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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